ミシェル・フーコーが望んだ『共同幻想論』解説

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ミシェル・フーコーが望んだ『共同幻想論』解説(フランス語版)

「『共同幻想論』解説」は印刷本(プリント・オン・デマンド)と電子書籍の両方があります。


List Price: $13.00

6″ x 9″ (15.24 x 22.86 cm)

Black & White on White paper

104 pages

ISBN-13: 978-1544001579 (CreateSpace-Assigned)

ISBN-10: 1544001576

BISAC: Philosophy / Social


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概要

吉本隆明が『共同幻想論』を書いたとき、彼は西洋の概念では国家は共同の幻想だということを知った。吉本は西洋世界では国家が社会という概念より狭い概念だと知って驚いたが、西洋の常識ではそれは当然のことであった。「日本人は国家というものが自分たちを取り巻いて逃れられない運命の共同体だいという幻想に取り憑かれたままで覚醒していない。他方では、西洋の常識では国家と個人とが別の概念でときに対立するということがあるにも関わらず」彼が『共同幻想論』を書いた時、まさに国家は共同の幻想だという啓示が織りてきたのである。

国家がたんに政治的な単位にすぎないという常識の中にいたフーコーにとっては、「党」というたんに現代の政治的な単位にすぎないものがまるで宗教集団に成り代わってしまうメカニズムのほうが神秘的なのだ。

フーコーが言いたかったことは次のことだと思われる。西洋では個人はすでにあらゆる幻想から解き放たれているという信じられている。別の言葉で言えば、マルクス主義革命の後で、あるいは革命の過程で、人間の全面的解放がすんだのか?人間存在はそんなに簡単な概念で説明できるのだろうか?特にマルクス主義革命の支持者の集団である共産党が狂信的な宗教集団と変わらないような狂信的な集団と化してしまうのを見ると、人間という概念は根拠のない概念にすぎないのではないか。これが『言葉と物』を書くときにフーコーの頭にあった疑問ではないのか。これがフーコーが人間概念を解体するという着想の元に4世紀を分析しなければならない理由だった。こうしてそれまで根拠があると思われていた個人、集団、社会といった概念を疑わざるを得なかった理由だ。

フーコーと吉本の対談は西洋と東洋との接近遭遇であったが、対談を成立させるための共通の場がまだ十分に成熟していなかったために相互理解というところまで行き着くことはできなかった。そのため、吉本隆明によって突きつけられた外国哲学者・文学者の責任を、『共同幻想論』の翻訳を引き受けることによって果たそうとした私の限定された仕事は、外的な事情によって、結局『共同幻想論』とミシェル・フーコーの思想の比較研究にまで発展せざるを得なかった。ただ、その過程で、私はインターネットに象徴されるコミュニケーション手段に到達するという大きな副産物を手に入れることができた。謙虚に研鑽さえ積めば、私たちが知的ツールを一部の自称エリートたちの独占から奪回できる時代になったという確かな手ごたえを感じながら、私はここでひとまず筆を擱くことにする。

ミシェル・フーコーが望んだ『共同幻想論』解説

物と言葉
『世界の散文』と「世界という散文」
メルロ=ボンティの「表現」expressionとフーコーの「再現」representation
神分析学と民族学
フーコーと吉本隆明の対談「世界認識の方法」
集合的幻覚fantasmes collectifsではなく
……「共同幻想」 illusion commune
フーコーの予告
禁制と黙契
憑き、あるいは共同幻想の個人への憑依
巫親と巫女
他界、死とは何か
生、誕生とは何か
母系社会の存立構造
家族とは何か
母系社会から父系社会への転化
国つ罪と天つ罪
結論
あとがき


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