ネールの塔

2023年2月12日任意

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ネールの塔

ネールの塔ー五幕、九景ドラマ

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アレクサンドル・デュマ

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 『 三銃士』(ダルタニアン物語を含む)や『モンテ・クリスト伯』を始め『王妃マルゴ』、『モンソローの奥方』、『黒いチューリップ』などの小説で世界的な文学者となったアレクサンドル・デュマは、最初、劇作家としてデビューしたという事実は意外に知られていません。実は19世紀のフランスでは、劇作家が「詩人」として聖別された一級の文学者とみなされていました。それはラシーヌ、コルネイユ、モリエールという三大巨頭でフランス劇壇を世界でも独自の劇的空間を作った17世紀以来、韻文による劇作が長い間フランス文学環境を支配していたからです。ナポレオン戦争を経験した若い世代が、ヨーロッパ全体を支配していたローマ帝国の幻想の呪縛から解き放たれて、自分たちの本当の祖先がゲルマンやフランクといった「野蛮な」中世人だったという発見を経て、フランスにロマン主義の激風をもたらしました。その先頭に立っていたのが、ヴィクトル・ユゴーやデュマだったのです。ユゴーは天才詩人だったので韻文劇から離れませんでしたが、デュマは大胆に散文劇を書き続け、フランス演劇界に革命を起こしたのです。
 米国デトロイトのウェイン・ステイト大学のフェルナンド・バッサン教授によれば、アレクサンドル・デュマの戯曲は117篇を数えます。

大デュマの戯曲の新版は117の作品ないし草稿を含んでいる。今日までに出版されている彼の戯曲全集は(カルマン・レヴィ版の)66編しか数えなかった。ここに私が入れた51の新たなタイトルがすべて未刊行の作品であるわけではない。それは以下のように分類される。全集から漏れたデュマの署名した2作品『バスティーユの囚人』と『バベルの塔』(これは共作)、未刊行の22作品(完成作品11、未完成作品11)、債権者から免れるためか、または別の理由によるかで共作者の名前で刊行された27作品である。これらの新たなタイトルは、私は反論の余地のない証拠に基づいてしかデュマのものにはしなかったが、それについては作品の解説のところで明らかにする。その作家であることが証明されない作品は、私の憶測を示すだけで満足することにし、全集から除外した。[ref] Fernand Bassan, Alexandre Dumas, père, Théâtre Complet, texts présentés et annotés, inêdits trouvés et établis par Fernand Bassan,Bibliothèque Introuvable 9, Minard. Paris, 1974 -, Fascicule 1, p.13.[/ref]

 今回、デュマの劇作品の中でも傑作の呼び名の高い『ネールの塔』をお届けします。フランス王妃とビュリダンとの権力と知力の戦い、尊属殺人、嬰児殺し、近親相姦、恐るべき人倫の蹂躙を舞台にのせた作者の勇気と革命と戦争を通じて権力に潜む非人間性を知ったために、そうした表現を受け入れることができた観客の興奮を感じていただければ幸いです。

解説

ネールの塔にまつわる歴史は次のようなものでした。

中世の物語、特にネールの塔の伝説的な物語は当時流行であった。史実では、女王マルグリット・ド・ブルゴーニュ(1290-1315)と義妹のブランシュは、それぞれフィリップ・ドルネとゴーティエ・ドルネという兄弟を愛人にし、モービュィッソンの修道院で逢い引きをしていた。1314年、四人は密告されてルイ強情王と呼ばれたLouis Xの命令で全員逮捕された。一人の若者は尋問によって自白(しかし、裁判の一切が秘密であったために、すべて憶測の域を出ない)し、拷問の果てに死んだ。1315年4月のことであった。1322年、女王は、伝説の語るところでは、1315年4月30日王の命令によりシャトー・ガイヤールで絞殺されて死んだ。ブランシュは1322年解き放たれ、僧籍に入り、モービュイッソンの修道院に赴いて翌年そこで死んだ。この姦通を手引きした端役たちは死刑か、または逃亡した。さらに二番目の義妹ジャンヌは一旦告発されたが、身の潔白を証明することに成功した。これがこの事件にたった2頁しか割いていない同時代人のド・ナソジの『年代記』の継承者が教えてくれるすべてである。ネールの塔がフィリップ美男王の嫁たちの放蕩三昧(ほうとうざんまい)の本山であり、一夜限りの愛人の死体を翌朝セーヌ川に投げ落とさせたという、これといった根拠もない一つの伝説が生まれたのはかなり古いことである。これらの情夫のうちビュリダンなる人物が問題である。事実、ビュリダンという人物はどこにも見当たらないうえに、さらにもっと可能性が薄いのはパリ大学の総長であった哲学者ジャン・ビュリダン(1290-1358頃)がマルグリット・ド・ブルゴーニュの愛人であったということである。様々な伝説がジャンヌ・ド.ブルゴーニュあるいはマルグリット・ド・ブルゴーニュとの関係を彼に負わせ、その二人のどちらかが(ヴィヨンが書いているように)彼を袋に入れてセーヌ川に投げ入れ、そのために死んだかどうかは様々な異本がある。ブランドームはその『艶婦列伝』のなかで有罪の女王のことには触れることなく、ネールの塔における王家の血みどろの乱痴気騒ぎの伝統について言及している。[ref] Fernand Bassan, Histoire de la Tour de Nesle de Dumas père et Gaillardet, Nineteenth-Century French Studies, III,  Nos.1-2 (Fall Winter 1974-75), pp.42-43,Note 3.[/ref]

 これを題材にしてフレデリック・ガイヤルデという若者が脚本を書きました。着想はよかったが、劇場に上げるまでではなかった原案をロマン主義演劇の傑作に仕上げたのがアレクサンドル・デュマでした。熱狂をもって受け入れられた『ネールの塔』はその後、著作権を巡るガイヤルデによる執拗な訴訟が作者2人の死後まで続く因縁の作品でもあったのです。『ネールの塔』に付けた解説では、この問題を詳細に説明しています。お楽しみ下さい。

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 上の写真は1903年ポルト・サン・マルタン劇場で上演された舞台

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Posted by hnakata